きんとんに興味を持っていただきまして、ありがとうございます。
当サイトについて
当サイト「きんとんの小金稼ぎ」はアフィリエイト広告(Amazonアソシエイト含む)を掲載しています。
きんとんはどんな感じ?
私、きんとん(觔斗)はオヤジ世代、体格はマルめの小太りの女好きな男性です。ポワロと呼ぶ人もいますが、きんとんでお願いします。
学歴は低めの偏差値の大学を普通に卒業し、普通に働いていました。
理科系の学部を出ていますが、もともと美大志望で、あまり自分に合っていなかったのか、学部時代の成績は散々でした。
それでも卒業できたのは、阿呆ながらやさしい友人に助けられ、阿呆なりに文系科目の出来が他の学生より良かったので、トータルで何とか卒業するための及第点に達したのが理由です。
卒論は意地悪だけど後輩思いな先輩と、カネの亡者でホラ吹きだけどできゃる指導教官(教授)の手厚いサポートのおかげでパスしました。
学部の1年目、つまり入学して間もないことから、ありとあらゆる教授陣に嫌われ、友人と同じ内容(バレてないコピペ)のレポートを提出しても、私の方だけは赤点で返され、友人は優・秀で戻ってくるという、不条理な経験をひっきりなしにするという鍛錬の時代でした。
といっても、理科系の学部の単位取得のキモは、実験とレポートだったので、真面目に出席さえしていれば、卒業そのものは何とかなりました。
文科系学部のように代理出席という小技は出せませんので、真面目に生出席することこそが、上手く切り抜ける唯一のコツでした。つまり耐え抜いたわけです。
方便ながら、損得勘定を無視してマジメに行動できるのが私の唯一のとりえで、それが活きたのではと思っています。
ネット証券から株式投資や投資信託に手を出したのは、そういう大学生活を送っていた頃です。
阿呆大学でしたので、理科系科目以外の授業はふざけて寝ぼけても、授業にはついていけました。
サボれる授業の合間、または授業中に iPhone で松井証券のアプリから株価を追っかけていました。
同じ阿呆仲間の友人は、きんとんと同じことをやりつつ、100万円の元手から4年ですでに一億超えを達成していましたが、こちらは数千万円になったことが一時あったくらいで、卒業時には二千万円程度だったと思います。仕手株にやられて、株を買った会社が二社ほど清算し、この時期、大金つぎ込んだ日本航空も後ろから前原に息の根を止められたことも災いして四年で億越え達成にはになりませんでした。判断ミスの多いアマアマでした。
お金をあまり失わなかったのは、当時銀行が取り扱い始めた投資信託に手を出し、上手くやればもっと儲かった信託をたっぷり手数料を払って銀行の営業利益に貢献していたという、頭の悪い投資をしていました。投資信託そのものは利益を出していたので損はしていませんが、もう少しうまい運用があったと後悔する時代でした。
きんとんの職歴は、能無しかもしれないエンジニア、画家、デザイナー、法曹関係の事務職、イラストレーター、AV職人、乞食見習いとニートを少々です。ニート時代は小説家をしていました(すべての賞に落選)。
歴史を書き出すとクズみたいな感じの働きっぷりですが、本人は大まじめに楽しんでいました。
以下、具体的な時期は少しぼかしつつ、きんとんのヒストリーを晒しておきます。
エンジニア時代
理科系の学部と言っても、何とか滑り込んだ低偏差値の場所でしたので、その中でも成績の悪いきんとんは、就職ではまともな会社からは軒並み嫌われました。
ITの時代になって履歴書を手書きする機会は減り、阿呆大学名を電子入力するだけでシステムが足切りするという嫌な時代です。
別大学に進学していた高偏差値の友人を頼りに、調子に乗って検索エンジンで有名な例の会社も受けたことありますが(優秀な先輩に紹介してもらいました)、能無しがバレるのが早すぎで、容赦なく速攻キックされました。
跳ねられた理由は正確にはわかりませんが、察するに、エンジニアとして応募したにもかかわらず、営業志望の応募者の中に混ぜられてしまい、その面接ではまったく会話が成立せず、自分だけ阿呆丸出し状態を晒したからだと、そう理解しています。厳しい現実としては、阿呆大学の理科系は英語国語ができない、せいぜい計算ぐらいはできる程度の要員としてしか扱われず、てめえのレベルを考えてエンジニアに応募して来いって感じでした。面接員は態度には出しませんが阿呆が俺様達と同じ職場で一流コックが作るタダメシ食えるわけないだろって感じだったのかもしれません。
まあ、それは記念受験でいいとして、その後、当時の知り合いのオッサン(元エンジニアから経営者になったオッサン)が始めた会社に真面目に拾ってもらい、その中でシステム管理みたいなことをやっていました。
システム管理も、モノは言いようで、小規模の会社だったので、社員は営業も買い出しも、管理もお茶出しも全部やります。つまり雑用係の上位版みたいなものです。
その中で、カッコよさそうな役割を選んで肩書にして、自分を良く見せているだけです。
エンジニアっぽく活躍できたなと思ったのは、入社一年目で、会社のカスみたいなホームページをきれいにした程度で、当時はレアだった JavaScript や ActiveScript で動的にまとめたことぐらいです。私でメモ帳だけでページを書き換えていることろを諸先輩が見て「コイツ、デキルヤツだぜ!」と感じてもらえたようです。ちょっとWebデザイナー的なことができたささやかなひと時でした。
オッサンの会社はシステム管理が業務ですが、現在のレベルからするとあり得ないほど低レベルなことしていました。それは今はITが伸びすぎた結果そう思えるだけですね。私は美大志望なのでデザインはうるさいので、その点を買ってくれたのだと思っています。
ウェブサイトの管理以外には、あとはスパムメールの管理したり、データベースに悪さする某国からのハッキング行為を処理したりなど、今の水準で言えば中学生なら普通にこなせる程度の内容でした。
この時代に、ヤバい会社経由で先物取引に手を出してしまい、数年にわたり一千万円ほどの損失を出し続けてビビっていましたが、その損害は最終的に40万円程度にまで圧縮できました。
画家時代
エンジニアとして働いていた(というか中身は雑用)自分を見つめなおし、更なる深みを極めようときんとんは会社を去ります。
というか、実際は創業者のオッサンが会社をたたんでしまい(事実上の倒産)、私、きんとんは路頭に迷うことになります。
当時、手元にあった10万円を有効に使おうと、即断で東南アジアの某国に渡りノマド生活を送ります。
現地通貨だと、なけなしの10万円が30万円超えの価値になり、現地の人と同じ食事をしていれば、月に2万円程度でやりくりできました。
これでも、現地ではそれなりの生活をしていました。
たまたま一人旅で、さらに北の都市に向かうと、夜店でぼったくり商売している連中に目を付ました。
たまたま見かけた、いい歳したオッサンが、A3 用紙に鉛筆でデッサン描きしたものを1,000円程で販売しているのを知り、見よう見まねで参戦しました。
夜店の一角で、顧客がやってきたら速攻で似顔絵を描いて、描いた生の紙を販売するという商売です。
絵を描くのは好きなので、きんとんからしたら遊んでいるのと同じです。
現地の人は1,000円も出して買うわけありませんが、白人系の旅行客はその値段で買ってくれました。
二束三文のチリ紙に落書きして、それを1,000円程で売るわけですから、詐欺みたいなものですが、日本でも同じようなことやっている店ありますよね。
なお、反復的に絵を描いて販売することは、何の資格も必要としませんが、チリ紙をやり取りしての金銭の授受になりますので、労働ビザのないきんとんには違法になる可能性がありました。
きんとんは労働者でもないので、その国の当局は見逃してくれた(不法労働とかにはならなかった)ようです。
そんな生活をしていれば、似非絵描きとしても、現地の人の一月分の生活費ぐらいは稼げました。
現地の法律的には、自分の持ち物を売ってお金に変えたという解釈になるのではと、言い訳しています(両替ということにしておいてください)。
この時代は、私の所有する国内株式はほとんど塩漬け状態になっていました。損した株もありますが、逆に上げた株もあるので、差し引きトントンか少々利益が出た程度です。
現地の人とコネができたので、その協力を得て、現地で自分の株式口座も開設しました。この時代は、日本株はほったらかしで、現地の株式をもっぱらトレードしていたという感じです。
同時期によくフードコートで、一緒に株式トークで盛り上がる友人ができました。
その中の一人の日本人株式アドバイザーが、彼のスタッフの女性にビンタを食らわせ、暴言を吐いてしまい、彼が本職を解雇されるという事件にも遭遇します。
外国株は彼からネタを得ることが多かった私は、少なからず影響を受けてしまい、トレードの回数が減ってしまいました。
その道では、そこそこ有名人な男でしたので残念です。当初の雑誌記事では、女性に暴行したみたいな書き方をされてされていましたが、彼のやったことは顔に往復ビンタです。べつに何のフォローにもなっていませんけどね。
法曹関係の事務職時代
ノマド生活も長く続けることができず、『深夜特急』にあこがれるもひの挑戦を継続すらできず(到達できたのはカンボジアまで)、株価が下がり続けてきたことを契機に、日本に戻ります。
安アパートを探している時に、たまたま脳内寄り道して手を出し始めたのが、リート、不動産投資です。ノマド生活中に株式などで得た小金を、そちらの方にも分散することにしました。
学生アパート運営でも始めよう(まだレオパレスが問題になる前のことです)と、複数の法務局まわりしたり、物件をいろいろ探っていると、昔お世話になった知り合いのお姉さんと再会することになります。
当時お話したことは、「日本に帰ってきたばかりで、とにかく何か仕事したいよ」みたいなことでした。当時の私きんとんは、バーテンダーとか募集していないものかと真面目に職探していました。
しばらくして、そのお姉さんが、会社設立登記などを扱う事務所の事務職ならあるかもということで、そういうお堅いところの事務職員になります。
そのお姉さんは、古都の開業医と結婚した玉の輿で、本人は難関国家資格に在学中にパスしたという知性派のほぼほぼ美女でもあります。敵にできる、いやかなう人ではないので、一方的にお世話になりました。
でも、事務員の生活は、事実上の最低賃金を下回る給料でしたので、アルバイトの方が実際の生活は楽なように思います。
給料以上の責任を負わされ、守秘義務まで生じてしまい、しかも時間外勤務が多すぎの、割に合わないとは感じていました。
おかげさまで、本気で副業に手を出しいつか副業が本業になるようなことも想像し始めました。
こういうところの事務所は、先輩士業のサポートを受けつつ、事務員のまま国家試験を受けて、何たら先生と呼ばれるようなポジションに昇格するのがキャリアパスみたいなっています。
きんとんも、立場上、勉強も何もせず何回か適当な受験をしたことがありますが、思考力・記憶力・暗記力が人一倍弱いこと災いして、一次試験すらパスしたことがありません。
辛かったことは、事務所を辞めたくないけれど、試験に受かるわけでもない、やる気もあまり持っていないので、きんとんの居場所は時間とともに削られていくのがわかったことです。
このままではすぐにくたばるということを実感しました。
それでも、携帯電話やネット回線の契約を維持するためには、見かけ上でも、仕事を何かしないとだめなので頑張っていました。
まともな収入はほとんど得ていないにもかかわらず、生きていけたのは、お付き合いしていた女性にもお世話になりましたが、副業とそこそこ株式収入があったからです。
この時代に、副業ついでに仮想通貨(暗号資産)に手を出し、もっぱらマイニングに励んでいました。小さな古いマンションの一室が基地でしたが、引っ越し後に8台のサーバーを起動させ、ブレーカーを落とすというヘマを何度もやりました。
すぐに、電力会社にブレーカーをアップグレードしてもらい、シコシコとマイニングしていましたが、勢力を伸ばしてきた中国資本にやられてしまい、結局利益はほとんど電気代に取られてしまいました。
マイナスにならなかったことを良しとして、マイニングからは手を引くことになります。仮想通貨は今後は売買だけやっていきます。マイニングはこりごりです。
イラストレーター時代
大学生だった頃に、阿呆ながらにパソコン用のソフトをいくつか使えるようになっていたことが、この時代に活きてきます。
美大志望だったこともあり、当時は高額だった Adobe 製品でもそれなりに使いこなせるようにはなっていたので、その道の人たちとほぼ同等の会話が成立していました。
当時の私がやっていた、事務職といっても、小汚い事務所の雑用なので、PCを使えれば誰でもこなすことができる内容でした。
早い話、私きんとんなんぞ、特別に必要とされていませんでした。
だから、副業としてイラストレーターを始めることになるのですが、いかんせんプロではない(プロのつもりでも客がつかない)ので納期も遅くなり、クライアントの要望にもうまく答えられず、四苦八苦することになります。
副業というのは、ギリギリアルバイトの廉価版みたいな感じで、自分余力で小金を稼ぐことです。私は某悪友から持ち込まれたAVに顔と局部モザイクをかけるタスクもいたただいていましたが、それでも数をこなせばそこそこの収入になりました。
唯一、品質だけは高評価してもらえましたが、何度もクライアントの要旨変更要求に無償対応せねばならず、割に合わない創作活動をしていました。
そこで、収入を安定させるために、プロが描いた手書きのイラストを持ち込んでもらって、それをデジタルデータ化する仕事を始めることになりました。
カッコよく言えば、東京オリンピックのロゴデザインで能無しがバレてしまった、サノケンジロウ(パクリデザイナー)と同じことをやりはじめたわけですね。もちろん、サノケンは無許可の盗用ですが、私は許可済み、著作権者の了承のもと依頼を受けてやってました。
でも、当時の私の収入ですが、電通の一般職の五・六分の一あるかないかでした。サノケンみたいにパクリ一筋で進んだ方が、金銭面では有利だったのではと思います。
同時並行で、阿呆なりにも某事務所でスタッフ(補助者)みたいなことをしていましたので、ソコソコ法律の知識も実務的に得ているのが、私の強みです。ナニワ金融道の灰原達之みたいなもんですかね。
乞食見習い時代
お金を稼ぐことが苦手というか、無頓着な私、きんとんは学生時代に培ったことを実践します。
昔、学部生の時の課題で、「震災等で住居を奪われた人を救うためのアイデアを出せ」というのがありました。私は脳が弱めでしたので、実際にどういう感じなのか疑似体験したいと思い、三日三晩、近所の公園で乞食の真似をして生活したことを思い出しました。
これもカッコよく言えば、役者になろうと思って、役作りのためとか、いくらでも虚飾できますが、本意ではないのでやめておきます。
公園に段ボールで簡易な家を作り、マジでチャレンジしようと心を決めましたが、保健所から変な病気が流行っているからヤメロと強制退去を食らいます。
たしか、決意から12時間(ダンボールハウス建築後24時間)ほどしてから、強制退去を食らいました。
本気で乞食をやる気もなかった私は、ダンボールハウスを失ったことの方がショックでした。
阿呆っぽいきんとんですけれど、見かけによらず器用で、公園に違法設置したダンボールハウスは隈研吾クラスの傑作だと思っていました。
それを役所の無粋な連中は、違法投棄者のゴミのようにごとくぶっ潰して、ゴミ箱送りにしたことに悲しみすら感じました。
脳溢血で死にかける
乞食見習いをやり始めた頃でしたでしょうか。自分では当時の記憶は薄いのですが、朝、ICU(集中治療室)で目覚めたことがありました。
前日、急に倒れて病院に運ばれたそうです。
MRI検査などを受けて脳内出血で危篤状態のようでした。本人はそこらの記憶がありません。心臓が停止しなかったので生きている感じです。
幸いにもマヒなども残らず、言語能力もほぼ失われませんでした。
親族の話によると、私はICUの中にいても看護婦にセクハラをするようなエロおやじ丸出しだったそうです。 (何をしたかはまだ教えてもらっていません。)
つまり健在ということなんだと思います。
ニート時代
よくよくシラフで考えれば、猫みたいに段ボールハウスで生きていけるわけではなく、なけなしのお金をはたき、カプセルホテルでの生活を始めました。
行政上の住所は知人の居宅に住んでいるという感じにはなっていますが、実態はカプセルホテル暮らしです。
それでも、トイレとシャワーを使えるのは、たとえ共用でも嬉しいものでした。